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高知県民がよく使う言葉「おまち」ってどこ?

       

この情報は2018年6月13日時点の情報となります。

高知に住んでいると「おまち」という言葉をよく聞く。「おまちに遊びにいく」「おまちで飲みゆう」など。ところで、「おまち」ってどこ?

高知県、特に高知市周辺に住んでいる人の会話で「おまち」という言葉を聞くことがある。

 

高知県民A:「いま、どこにおるが?」

高知県民B:「おまちで飲みゆう。」

高知県民A:「おまちのどこら辺で?」

 

こんな感じ。「まち」という言葉も「おまち」と同じ意味で用いられている。

大まかには「高知市の中心部を表す言葉」という共通認識がありそうだが、それぞれの「おまち」は果たして同じ場所や範囲を意味しているのだろうか?

高知家の〇〇取材班は高知県在住の30名にアンケートを実施。その結果から、高知県民の「おまち」の認識を明らかにしていきたい。

 

 おまちはどこからどこまで?

まず、高知県民はどの辺りを「おまち」と呼んでいるのだろうか。高知市中心部の地図を見せたうえで、「おまち」と思う範囲を答えてもらった。

 

【質問】あなたが考える「おまち」はどこですか?範囲を線で囲ってください。

その結果、東と南の境界線は「電車通り」とする回答が大勢を占めたが、北と西の境界線については意見が分かれた。

北の境界線については、日曜市が開かれる「追手筋まで」とする人が最も多く、「江ノ口川まで」や「高知駅まで」とする人も多く見られた。

西の境界線については、「大橋通りやひろめ市場辺りまで」が多数派で、「高知城歴史博物館まで」や「高知県庁まで」をおまちと考えている人も存在することが分かった。


追手筋で毎週開催される日曜市

おまちの境界線の最頻値(最も多くの票を集めた境界線)はこちら。

 

【結果】おまちの境界線(最頻値)

 東端:電車通り(蓮池町通り交差点~はりまや橋交差点)【16票/30人】

 西端:大橋通り【12票/30人】

 南端:電車通り(はりまや橋交差点~大橋通り)【20票/30人】

 北端:追手筋(ひろめ市場~蓮池町通り交差点)【12票/30人】

地図を囲ってみると大体こんな感じ。

帯屋町アーケードを中心として、北は追手筋、南は電車通りまでを「おまち」と思っている人が多いようだ。この範囲は洋服屋、雑貨屋など若者向けのショップや、居酒屋やカフェなどの飲食店が多く立ち並ぶエリア。なんとなく納得感のある結果だ。

 

こんな意見も…

その他、高知市以外の出身者からは「高知市内すべてがおまち」という声や、「おまち=帯屋町のアーケードのみ」という人など、おまちの範囲は人それぞれ。

「地元(黒潮町佐賀)では中村(四万十市)のことをおまちという」という回答もあり、同じ「おまち」という言葉でも、出身地や生活環境によって認識している範囲が違うというのは興味深い。

 

「おまち」の書き方は?

次に調べるのは「おまち」の書き方。

本稿では「おまち」と表記してきたが、基本的には話し言葉で使われる「おまち」。

敢えて書くとすれば、どのような書き方になるのだろうか。

【質問】あなたの「おまち」の書き方はどれですか?

  ① お街
  ② お町
  ③ おまち
  ④ その他

結果はこちら。

【結果】「おまち」の書き方

おまち=お街」と思っている人が6割で、最も多いという結果に。

ウィキペディアによると、「街(まち)とは、都市の中のデパートや商店街、飲食店などのアーケードがあり、集客力の高い繁華街、もしくは商業地区」とのこと。


夜の帯屋町アーケード

やはり、多くの高知県民は「商業施設が建ち並ぶ繁華街」という認識で「おまち」という言葉を使っているようだ。

 

いつから「おまち」といわれているのか

ところで、「おまち」という言葉はいつから使われ始めた言葉なのだろうか?

取材班は、高知県の民俗・文化に詳しそうないくつかの施設に問い合わせを行ってみたが、「おまち」の起源について明確な答えを得ることはできなかった。

そんな中、「おまち」に言及している箇所があるという文献の情報を入手。その本がこちら。


「地方都市の暮らしとしあわせ 高知市史民俗編」 高知市史編さん委員会 (著)

本中には、江戸時代から明治、大正、昭和に至るまでの高知市の発展の様子が詳しく記述されており、高知県民が繁華街のことを「おまち」または「まち」と呼ぶことを指摘する箇所も存在する。

残念ながら、「おまち」という言葉が市民権を得るに至った経緯や時期などについては言及されていなかったが、「買い物と女性の暮らし」という章で紹介されていた、昭和15年生まれの公文さんに関する「おまち」の記述を紹介したい。

”何でも近所で揃う繁華街の真ん中で生まれ育った彼女たちにとって、それはあまりに身近な風景であり、「おまち」や「お城下」という意識は薄い。「友だちに、あんたは『おまち』の子やき、といわれて、ああ、そうなのかな、と。学校も近いから、定期券を持つ生活に憧れました。大丸も、私らはエプロンつけて駆けこむ感じだけれど、田舎からきた人はよそ行きの姿でいっていた」(公文さん)”
※出典:「地方都市の暮らしとしあわせ 高知市史民俗編」222ページ

公文さんの言葉から、少なくとも戦後まもなくの頃から、若者の間で高知市の繁華街のことが「おまち」と呼ばれていたことがわかる。


高知城天守から見下ろす高知市の街並み

新しい商業施設ができるなど、年々高知市の街並みも変化を続けている。

「おまち=繁華街」という定義が正しいとすれば、時代とともにおまちの範囲も移り変わっていくものなのかもしれない。

あなたの「おまち」はどこですか?